れげえぶろぐ

れげえの話

”新宿”

新宿駅

 

ー先日、新宿駅で路上で人生を過ごしている人たちを訪れたー

 

路上生活者支援の団体が行なっている訪問活動に参加。

モノをあげるのが目的ではなく、定期的に路上生活者と話すことで、彼らが行政やNPO団体の支援が必要になった時にすぐに頼ってもらえるような関係性をつくることが大きな目的。

また、あなたを思っている人が世の中にいる、ということを伝えることもすごく意義のある活動目的の一つ。

誰からも見られていない、誰からも必要とされていないと感じることは生きる意味を失うことにつながってくる。人間を拒む人も中にはいるけれど、大半の人は人なしで生きれないから。

人に愛され、人に必要とされることで人は幸せと生きる意味を持つと思っている。

 

 

ー活動

決まったルート内で路上生活をしている人たちに片っ端らから声をかけていく。

普段は全く目にも止まらない路上生活者の姿が次々と目に入ってくる。

 

話してかけるとみんな最初は驚いた反応するのだけれどすぐに話してくれる人が大半。

たまに完全に話しかけNGな人もいる。様々な過去から極度の人間不信になっている人も多いように見える。

 

 

たくさん活動に参加しているわけではないけれど、大事なことはこちらからオープンになること・こちらが殻をまず作らないことだと思っている。

 

つまり、お固いキャラで  THE 支援者です、あなたは困ってそうなので助けますよ。という雰囲気で話しかけないこと。

相手がそれで応じる人ならいいのだけれど、そうでない人も多い。

非支援者が生活保護や他者からの手を拒むのは支援サービスの価値をしっかりと理解できていなかったり、自分が搾取されると思い込んでいたり、ひどい扱いを受けると重持っていたり、過去に裏切られた経験があり人を信用できていないからというケースなど多様。

 

ファーストインプレッションはとても大事でそこからその人とどんな関係性を作っていけるかが大きく左右されると思っている。

なぜかというと、こちらからオープンになるとあちらも面白がって話してくれるから。

 

自分が乱用しているフレーズは”僕、学生なんすけど、調子どうっすか!?” 

と俺はただの若造で何も利害関係はないぞ!ということを前面に押し出す。

そうすることで相手はこちらをまず怪しい者だとは思わない。と勝手に思っている。笑 

 

もっと具体的なコツを説明すると、高校の体育部活生のような口調とキャラでせめること。相手は、可愛いやっちゃなこいつ、暇つぶしでもしたろうかと思ってくれる。と勝手に仮説を持っている。

ちなみにどのスポーツの部活かという設定はどうでもいい。ちなみに俺はサッカー部だったので高校の頃の先輩と仲良くなるようなイメージで話している気がする。

 

まだ試行錯誤なので、もっとノウハウを蓄積していきたい、参考書的なの作る。笑

 

 

何はともあれ、当事者の方とただただ友達になること。これが自分が思う最善の方法だと思う。これができないとそもそも相手は聞く耳を持たなかったり、こちらを怪しがったり

友達になれないなら相手は自分のことなんて話したくないだろうしましてや

過去の誇れるような話でない場合はなおさら話してくれない。

 

まずは友達になることを第一目標とすること。情けの気持ちを持って声をかけない。情けの思いを持ちながら話してもそれは支援者と非支援者の立場を作っているだけだからだ。

  

ー今日の出会った人の話ー

 

緑内障白内障と糖尿病を持っている、人生に希望を失っているおじさん

 

JR改札近くで発見したおじさん。

座り込んでいて、調子はどうか尋ねたところがっかりしていると話していた。目が病気で病院に行ったそうだが、医者からは悪化しないように気をつけましょうと言われただけだったらしい。

片目がもう見えず、もう片方の目もどんどん視力が落ちているという。白内障緑内障の両方を持っている方だった。このままじゃ失明するらしい。

手術は受けたのかと聞くと受けたけれど治らなかったと話していた。

そのあと、おじさんは呆れて笑いながら、

俺なんか死んだ方がマシだと呟いていた。目は悪いし体は悪いし年は行ってるし、生きている意味がねえよ。と。

なってみねーとわかんねーよ。

死んだ方がマシだと。

 

完全に閉口した。

 

そんな言葉が口から出てしまう世の中を作っている俺たちは何なのか。

 

そんな言葉はどこかの映画やどこかの記事で見たこと聞いたことはあったけど、

直接聞きたくなかった。そんな言葉はこの世から消えてしまえばいい。そう思った。

 

 

でも、これが先進国日本で実際に外の世界で家を持たず、家族を持たず、

生きている人たちの事実なわけで

 

衝撃と共に、ただ俺は悲しくなった。

そこで悲しさが込み上げてこないほど、言葉を失わないほど、俺はまだ強くない。

 

 

でも同時にそこで俺も倒れてはいけないと思った。強くなりたいと思った。

同情することは大切なんだけど、目の前で困窮している人の状況を少しでも変えるためには、その人の人生の角度を少しでも変えるためには、

俺が強くならないといけない。そう感じた。

 

無力感は感じるし、半端なく同情する。

でも俺は倒れたくないし、この人の状況をどうにかしたいと思ってしまう。そんな自分がいる。

経済的には独立しても、自分の人生もしっかり確立できていない自分が、人の人生に顔突っ込んでどうにかしたいなんて何をいうとるんやという感じだ。

 

でもおじさんは助かりたいという意志を持っていると思う。

 

だって自分から医者にかかっているのだから。

死にたいと思いながらもやはり頭の中では、本能では死にたくないと、思っているはず。

死にたくても死ぬ勇気がないのかもしれない。

 

でも俺がその人の眼差しと言葉から感じたことは”生きたい”という意志だった。この直感が思い込みかもしれないから定期的に彼を訪れて話していきたいと思う。

 

 

 

恥ずかしながら、俺はこの文章を書きながら泣いていた。おっちゃんの想いを感じながら、ボロボロしてた。

 

こんな死に近い現場に最近までいたことがなかったから、みたもの聞いたことが衝撃的すぎて、頭の理解が追いついていないというのは現状。

 

 

でも発信し続けたいと思う。関わっているものとして、普段は混じり得ることのない人たちにも

日本で同じ時を生きている人々の実情を、この姿を、思いを、苦しさを、でもその中にある小さな幸せや楽しさ、明るい部分を伝えていきたい。

 

絶望している人もいれば、

反対に驚くように明るい人も話好きでめギャグ線高めの人もいる。そこはいい意味でのギャップで、最初に路上生活者支援活動に参加するときに運が悪くなければ感じることであると思う。

それだけたくましく明るく生きている人がたくさんいた。エネルギッシュでいろんな情報を仕入れて物知りな人がいる。

かなり裕福な生活とどん底の生活の両方を味わった人もいる。人生の中で様々な悲劇が起き後天的にしょうがいをもち路上にでた人がいる。

犯罪を犯して刑務所から出所して仕事が見つからずに路上に出た人がいる。

体を怪我して仕事を失った人がいる。家族から虐待を受けて逃げてきたひとがいる。

ギャンブル中毒で破産した人がいる。

 

 

でも俺の考えでは、その失敗をしたから人生にもう二度と挑戦できないなんておかしいと思う。一度どん底になったからともう二度と希望を持つことすらできない社会なんて俺はいやだ。

だから自己満足でもなんでもいい、俺は実現したい社会の像に向かって走る。

 

絶望を希望に共に変える。俺はそんなパートナーの存在になっていきたい。

 

絶望は希望に変えることができるのだと発信していきたい。

 

 

絶望は大きなポテンシャルである。大きな希望である。

 

そう思いたい。

 

 

 

 

共感を持てたり、いやこいつの考えとは違うけど、まあなんかおもしろみを見出して頂けたら是非ともシェアの方もお願いします。

 

 

もれなく吉江から愛の糸電話がかかってくるかと思います。

 

さあ今日も心震わす時間過ごしマッコリ飲みたい。